2005年12月 三富のさつまいも
 
さつまいもの原産地はメキシコ南部といわれ、ヒルガオ科サツマイモ属の多年草である。15世紀末にコロンブスがスペインに持ち帰り、16~17世紀に中国、琉球を経て日本に伝えられた。沖縄では、これを「紅いも」と呼び肉質が紫色をしている。
 
1705年に琉球から薩摩藩に持ち込まれ、育て方や品種の改良が行われた。幕府の命を受けた青木昆陽が薩摩藩を訪れ、栽培方法を学んで持ち帰った。さつまいもは、栽培が容易で栄養価も高く、日照りや天候不順でもよく育つ。昔は、ほかの作物が凶作な時に飢餓から人々を救うことのできる貴重な食糧だった。
 
三富新田の広さは約1400ha位あり、北を入間川・荒川、南を多摩川にはさまれた武蔵野台地にある。かって、萱・芒が広がる原野で、周辺農民が採草地として利用していた。洪積世に古富士山や浅間山の火山灰が台地に15m~25mの厚さに降りつもり赤土の関東ローム層をなしている。地下水位が深い。

1695年、川越藩藩主柳沢吉保が、日本最初の綿密な農村計画を立案し、この土地を三富と名づけ、新田開拓を命じた。三富は上冨村・中冨村・下富村の総称で、開拓農家の戸数は合計で241戸であった。当時1町歩(約1ha)の水田から約30俵(約1.8トン)の収穫が見込めた。このやせた土地で同程度の陸稲を収穫するには約2.5町歩の畑が必要だ。堆肥にヤマの落葉を利用するとすれば同面積の林が必要。1反(約10a)に500kgの堆肥を鋤きこむ。そこで、1戸当たり5町歩の土地を与え、5年間免租とした。この5町歩は40間(約72m)×375間(約682m)と細長く、真ん中に畦を通して茶を植えて風を防ぎ、両脇を農道にした。台地には川が流れていない。水を得るには20m~30mもの深井戸を掘らなければならなかった。開拓当初、ヤマに木を植え開墾して畑を広げていった。

1751年、この地にさつまいもの苗が持ち込まれ、開拓当初の苦しい生活を救った。木ノ宮地蔵堂境内に「甘藷先生頌徳碑」があり、さつまいも生産と普及に貢献した青木昆陽の徳をたたえている。さつまいもは「紅赤」を主に生産し、生産高は全国第8位だ。「富の川越いも」の銘柄で庭先販売もされている。

11月初旬、当地を訪れた。さつまいもは収穫が終わり、いものつるが畑隅に積んであった。林にはスギ・ヒノキ・カシなどが植えられ、屋敷林にはケヤキ・タケなどが植え防風林としている。冬から春にかけて麦や大根等の根物野菜を育て、夏から秋にかけてハクサイ、トマト等の夏野菜をつくる。作物の栽培は、水を撒かずに雨水にたよっている。
雑草は連続して7年位とり続けないと根絶できないという。ここでも畑作は雑草との戦いだ。

深井戸の 端につまるる 藷(いも)のつる 幹治