2008年5月高尾のさくら

桜が咲く時期になると、それまで続いた温暖な気候から一転して天気が不安定になり、気温が下がることが多くなる。このような気象を歳時記では花冷えという。開花の時期に寒い日が続くと花もちはよくなる。桜があちこちで次々に咲きだすと、ひとびとは気もそぞろに花見に出歩く。地元高尾には桜の名所が数多い。

わたくしは、ことし近所の真覚寺・万葉公園、興福寺、大光寺、高楽寺、高乗寺、金南寺、片倉城址公園、陵南公園から少し離れて下恩方の浄福寺と歩きまわった。3月27日の陵南公園の花見から4月6日の浅川地区体育会主催の花見ツアーまで、11日間で4回出歩いた。4月8日には、大型低気圧の接近で一日風雨が吹き荒れ、大方の満開の桜の花びらが吹き散った。
3月初旬ごろ、畑の仲間で「子供が小さいときによく花見をしたが、最近やっていないね。」、「あと何回花見ができるだろうか。」などの話がでて、3月31日に畑に図書館の仲間を加え総勢10名で片倉城址にて花見をしようということになった。

JR片倉にほど近い片倉城址公園は桜の名所の一つだ。ここに中世山城の遺構が残っており、小高い丘の上には広い芝生の主郭、二郭がある。園内には年数のたった桜が数多い。正面入口には彫刻広場があり、八王子を愛した彫刻家北村西望ゆかりの「西望賞」の彫刻の像が植え込みに展示されてある。中央の小道を登ってゆくと北斜面の中腹や沢筋にカタクリの群生地があり、毎年桜が咲く少し前に咲き出す。

花見一週間前の天気予報では雨になるということだった。当日、朝から雨が降っていたが、予報では午後から晴れるという。そこで時間を少し遅らし花見は午後1時からということにし、手分けして参加者にその旨を連絡した。あとで聞いた話では、参加者が電話を受けたときには、てっきり中止かと思ったそうだ。多少の手違いもあって、総勢が集まったのは、午後1時30分を過ぎていた。そのころになると雨上がり雲が切れて、瑞々しい桜が青空に映え清々しい日和となった。

二郭の大芝生の上に持ち寄ったシートを敷き、大桜を背に花見の饗宴が始まった。ひとしきりして、知人が昭和20年には、どこで、何をしていたか、みんなで話をしようと提案した。参加した仲間の年齢差は85歳から64歳まで、21歳の隔たりがある。その中に小学5年の孫娘を連れた人もいた。以下が昭和12年生(昭和20年当時8歳)の仲間の話。昭和20年8日2日未明、軍事拠点だった八王子が米軍の空襲を受けた。焼夷弾はすきまなく降り注ぎ、みんな防空壕に逃げ込んだ。同級生の一人が防空壕の中で被爆して死んだ。千人町の四つ角では被爆した死体が転がっていて、跨いで歩いた。実家は女工さんが20人ほどの機屋だったが、爆撃を受けて全焼した。片倉城址に配置された陸軍高射砲からB29を攻撃したが、全く届かなかった。また、ゼロ戦2機がB-29に体当たりで攻撃し撃墜した地点が近くにあるという。戦前、桜は、美しく咲きかつ散ることから軍国の花とねじまげられて利用され、前途のある多くの若者が死に赴かされた。

憑かれゐる ままにさくらを たづねけり 幹治

日本人ほど安価な感傷主義者の多い国はないだろう。それはまた、為政者にとって好都合でもあるが。愛国故に自己を犠牲にしても惜しまぬという愚衆の考え方は、一種の自己陶酔のマニアとしか思われない。
国家は私の理論では個人の下に立つ二次的存在である筈なのに、現実では最も極端に個人はその存在価値を低められている。即ち国家は個人の上位に在り絶対的に君臨する。

(1945年4月9日特攻で戦死した宅島徳光<享年24歳>の手記より引用)
大貫美恵子:ねじまげられた桜

太平洋戦争末期には多摩地区の中心都市であることや、軍需工場の存在により、八王子は米軍の攻撃目標とされた。1945年8月2日未明の空襲では、B-29の編隊170機により約67万発の焼夷弾が投下され、当時の市街地の面積比で80%、戸数にして14,000戸以上が焼失し、450名余が死亡、2,000名以上が負傷した。
同月5日昼には、高尾山に近い中央本線の湯ノ花(別称:猪鼻・亥ノ鼻)トンネル出口で、長野方面の疎開地に向かう人々を乗せた下り列車が米軍機P51の機銃掃射を受けた。一部をトンネル内に残したまま停止した列車は炎上し、死者53名・重軽傷者133名の被害を蒙った(死傷者数を900名以上とする説もある)。終戦間近に起きた八王子大空襲と湯ノ花トンネルの事件は、戦争の悲劇として市民に記憶されており、現在でも慰霊祭が行われている。
Webウイキペディア:八王子の歴史