2008年6月岩手のやませ

どこまで行っても真直ぐで目印となるものがない。どうやら道を間違えたようだ。ここは花巻市郊外の水田が広がる市道の道端である。花巻駅近くのレンタサイクルで印をつけてもらった観光案内図をたよりに40分ほど走った。この地図は市街地が詳しく郊外が簡略に書かれてある。そのうちにぱらぱらと雨が降り冷たい風が吹いてくる。雲が走る。山々がかすんできた。途中田植えをしている一家に出会った。この先を曲がればもうすぐだという。脇道のむこうに野球場のバックネットが見える。もう間違いない。

今日は平日、正午過ぎにようやく花巻空港北東端に位置する花巻農業高校に着いた。学校の正面1階上部に宮沢賢治が農学校教師時代につくった精神歌の一節「ワレラ ヒカリノ ミチヲフム」の横書き大看板が目に飛び込む。正面玄関に入ると事務室がある。声をかけると若い女の先生が出てきたので来意を伝え、ノートに氏名と住所を記入し、高校では「賢治先生の家」と呼ぶ羅須地人協会の建物(以前に北上川下流の桜町にあったものを移築)の鍵を受け取る。

高校の敷地内の一角に協会がある。協会に通じる道を歩くと向こうから五六人の生徒がやってくる。ほどなく協会の門柱が見え、その内側に外套を着てうつむいた賢治像がたっている。広い芝生の向こうに硝子戸が目立つ二階建てが見える。建物の側につつじが植えられ、花巻農学校精神歌を刻んだ賢治詩碑がたつ。

建物入口横に「下ノ畑二居リマス」と大きく白墨で書いた伝言板がある。扉に鍵を差し込んで中に入る。1階は8畳位の和室と板敷きの教室、2階は書斎になっていてここは立ち入り禁止だ。廊下と教室にはオルガンが置かれてある。30歳の賢治は農学校の教師を依頼退職し、自炊生活に入った。賢治は、元の協会崖下北上川河畔の荒地を開墾した畑で野菜や花を育て、作物をリヤカーに積んで町に売りにいったという。高校から約7km離れた桜町の「下ノ畑」に行ってみた。河畔に田んぼがひろがり、代田が点在し人影がない。洪水で畑が流される前にあったという「下ノ畑」の標識が見えなかった。

  春   
陽が照って鳥が啼き
あちこちの楢の林も、
けむるとき
ぎちぎちと鳴る 汚い掌を、
おれはこれからもつことになる
ちくま文庫:宮沢賢治全集2「春と修羅第三集」

賢治は、付近の村々に肥料設計の相談所を設け、稲作指導や肥料設計を無料で行った。テキストをつくって、農閑期に農村青年や篤農家を集め、稲作法、肥培原理、農民芸術概論などを教えた。体の酷使と粗食による栄養不足などで体力を消耗、病に犯された。当時戦時体制下で結社や文化活動の自由が制限され、2年後に協会の活動を停止。
賢治ゆかりの場所を予約もなく訪ねたが、ゆく先々で現地の人が暖かく迎えてくれ、貴重な話を聞くことができた。親しみを込めて地元の人は「賢治さん」とよんでいた。

吹くやませ ころも一枚 かさねさせ 幹治


イギリス海岸
花巻駅から北東方向約1.5kmに北上川に瀬川が注ぐ地点がある。花巻農業高校から桜町地人館に南下する途中にここに立ち寄った。賢治が花巻農学校(花巻駅北西方向約1.5kmの地点に旧校舎があり、現在ぎんどろ公園になっている)の教師をしていたときに、生徒をつれてたびたびこの地点に泳ぎに行った。賢治はここをイギリスあたりの白亜の海岸を想わせるところから「イギリス海岸」とあだ名した。

北上川は岩手県の中央を北から南に流れている。賢治は盛岡から花巻まで夜通し歩いたことがあり、夜空を眺めることが好きだった。北上川が天上の銀河の端につながって見えたことから、天空を駆けるという名作「銀河鉄道の夜」の発想が生まれたものと思われる。「銀河鉄道の夜」にはプリンシオン海岸の記述があり、イギリス海岸での化石採取等の体験が生かされているようだ。

夏休みの十五日の農場実習の間に、私どもがイギリス海岸とあだ名をつけて、二日か三日ごと、仕事が一きりつくたびに、よく遊びに行った処がありました。
 それは本たうは海岸ではなくて、いかにも海岸の風をした川の岸です。北上川の西岸でした。東の仙人峠から、遠野を通り土沢を過ぎ、北上山地を横截って来る冷たい猿ヶ石川の、北上川への落合から、少し下流の西岸でした。
 イギリス海岸には、青白い凝灰質の泥岩が、川に沿ってずゐぶん広く露出し、その南のはじに立ちますと、北のはづれに居る人は、小指の先よりもっと小さく見えました。
 殊にその泥岩層は、川の水の増すたんび、奇麗に洗はれるものですから、何とも云へず青白くさっぱりしてゐました。
 所々には、水増しの時できた小さな壺穴の痕や、またそれがいくつも続いた浅い溝、それから亜炭のかけらだの、枯れた蘆きれだのが、一列にならんでゐて、前の水増しの時にどこまで水が上ったかもわかるのでした。
 日が強く照るときは岩は乾いてまっ白に見え、たて横に走ったひゞ割れもあり、大きな帽子を冠ってその上をうつむいて歩くなら、影法師は黒く落ちましたし、全くもうイギリスあたりの白堊の海岸を歩いてゐるやうな気がするのでした。
ちくま文庫:宮沢賢治全集6イギリス海岸
:宮沢賢治全集7銀河鉄道の夜 
『七、北十字とプリンシオン海岸』

 

経埋ムベキ山
「雨ニモマケズ」手帳の山(標高はWebサイトに記載されていたものを参考に追加)のリストに胡四王山が入っている。写経を経筒に入れて埋めるという習慣は、日本では平安時代から行われていたという。胡四王山は賢治が愛したふるさとの山でたびたび登った。ここは新花巻駅から東に約2km位の距離にある。山の中腹に宮沢賢治記念館、少し先の道路から入った山麓にイーハトーブ館があり、今回第一日目に訪ねたところだ。イーハトーブ館の図書館には宮沢清六さん(宮沢賢治の弟)の孫という方が学芸員をしておられた。

わたくしの問い合わせに対して参考図書などを探していただき、また貴重なお話なども伺った。記念館に行くには裏山の山道を約600m位歩いて登れば行けるとのことなので、そこを辞して牡丹園(まだほとんど咲いていない)を左にみて山に入る。「熊に注意」の看板が目にはいる。山は新緑につつまれ空気が清々しい。山道に入るとすぐ「よだかの道」記念館650mの標識があり山道を進む。途中に記念館へ100m「ポランの道」と「星めぐりの道」の分岐標識があり記念館の方へ急坂を登る。昨年4月30日の記念館を訪ねたときにはカタクリが咲いていたが、今回は咲き終わっていた。

旧天山(100m)、胡四王山(176m)、観音山(260m)、飯豊森(131m)、物見崎、早池峰山(1,914m)、鶏頭山(1,445m)、権現堂山(472.3m)、種山(870m)、岩手山(2,041m)、駒ケ岳(1,600m)、姫神山(1,125m)、六角牛山(1,360m)、仙人峠(887m)、東稲山(596m)、駒形山(430m)、江釣子森山(379m)、堂ケ沢山(365m)、大森山(543.6m)、八方山(716.6m)、松倉山(380m)、黒森山(414.6m)、上ン平(560m)、東根山(928m)、南昌山(848m)、毒ケ森(782m)、岩山(345m)、愛宕山(200m)、蝶ケ森(223m)、鬼越山(444m)、篠木峠(420m)、沼森(582.6m)
ちくま文庫:宮沢賢治全集10
『雨ニモマケズ』手帳

ぎんどろ公園周辺
ここは花巻駅から南西方向に約1.5km位のところにあり、公園内に賢治が教師をしていた花巻農学校跡がある。すぐ近くの身照寺の裏には賢治のお墓があり、あたらしいお花が供えられてあった。「ぎんどろ公園」は銀白楊の木のヤナギ科の落葉高木のことで、賢治はこの木が大好きだったという。別名「ウラジロハコヤナギ」裏白箱柳ともよばれている。残念ながらこの木をよく見てこなかった。

なめとこ山の熊
今回は花巻南温泉峡の鉛温泉に2泊した。ここは豊沢川上流にあり日本一深い立湯で有名な一軒宿。「なめとこ山の熊」の中に鉛の湯がでてくる。賢治もここに泊まったものと思われる。

 なめとこ山の熊のことならおもしろい。なめとこ山は大きな山だ。淵沢川はなめとこ山から出て来る。なめとこ山は一年のうち大ていの日はつめたい霧か雲かを吸ったり吐いたりしている。まわりもみんな青黒いなまこや海坊主のような山だ。山のなかごろに大きな洞穴ががらんとあいている。そこから淵沢川がいきなり三百尺ぐらいの滝になってひのきやいたやのしげみの中をごうと落ちて来る。
 中山街道はこのごろは誰も歩かないから蕗やいたどりがいっぱいに生えたり牛が遁げて登らないように柵をみちにたてたりしているけれどもそこをがさがさ三里ばかり行くと向うの方で風が山の頂を通っているような音がする。気をつけてそっちを見ると何だかわけのわからない白い細長いものが山をうごいて落ちてけむりを立てているのがわかる。それがなめとこ山の大空滝だ。そして昔はそのへんには熊がごちゃごちゃ居たそうだ。ほんとうはなめとこ山も熊の胆も私は自分で見たのではない。人から聞いたり考えたりしたことばかりだ。間ちがっているかもしれないけれども私はそう思うのだ。とにかくなめとこ山の熊の胆は名高いものになっている。
 腹の痛いのにもきけば傷もなおる。鉛の湯の入口になめとこ山の熊の胆(い)ありという昔からの看板もかかっている。だからもう熊はなめとこ山で赤い舌をべろべろ吐いて谷をわたったり熊の子供らがすもうをとっておしまいぽかぽか撲(なぐ)りあったりしていることはたしかだ。熊捕りの名人の淵沢小十郎がそれを片っぱしから捕ったのだ。
ちくま文庫:宮沢賢治全集7

大礼服の例外的効果
3日目、花巻から快速にのり盛岡に向かう。盛岡駅から北約1.5kmの地点に岩手大学がある。市内バスに乗り、大学前で降りた。賢治は、ここの農林科第二部(大正七年農芸化学科と改称)入学し3年間学んだ。正門に入ると広い構内道路があり、左手が農学部だ。その奥に旧盛岡高等農林学校本館があり、ここは現在国の重要文化財に指定され付属農業教育資料館になっている。1階が資料室で、賢治関係の資料が多く展示されている。2階が講堂になっており、その壁の周りには初代から3代までの佩刀した大礼服姿の校長の大きなが額が掲げてある。

わたくしの、中学時代の理科の先生が賢治より遅れて10年後ここを卒業したと聞いていた。先生の学生時代を想像しながら隣接するポランの広場や睡蓮の咲く北水の池の周りを歩いた。
「大礼服の例外的効果」の中に賢治らしい級長がでてくる。何者にもとらわれないで本来の「国体の意義」を知ろうとする若者に、しがらみにとらわれ大礼服をまとってたじろいでいる校長の姿。真摯な追求をする若者と、こけおどしの校長の大礼服との対比がその効果を際立たせている。「国体の意義」は憲法解釈上、当時学者間でも大きく議論が分かれていた。

 こつこつと扉を叩いたのでさっきから大礼服を着て二階の式場で学生たちの入ったり整列したりする音を聞きながらストウヴの近くできうくつに待ってゐた校長は 低く よし と答へた。
旗手が新らしい白い手袋をはめてそのあとから剣をつけた鉄砲を持って三人の級長がはいって来た。校長は雪から来る強い反射を透して鋭くまっさきの旗手の顔を見た。それは数週前いきなり掲示場にはりつけられた われらはわれらの信ぜざることをなさず といった風の宣言めいたものの十幾人かの聨名のその最后に記された富沢であった。
 
それについてのごたごたや調査で校長はひどく頭を悩ました。
 ところがいま富沢は大へんまじめな様子である。それは校旗を剣つきの鉄砲で護るわけがちゃんとうわかったやうでもありまた宣言通り式場へ行ってからいきなり校旗を抛げ出して何か叫び出すつもりのやうでもありどうも見当がつかなかった。
 みんなはまっすぐにならんで礼をした。
 校長はちょっとうなづいてだまって室の隅に書記が出して立てて置いた校旗を指した。
富沢はそれをとって手で房をさばいた。校長はまだぢっと富沢を見てゐた。富沢がいきなり眼をあげて校長を見た。校長はきまり悪さうにちょっとうつむいて眼をそらしながら自分の手袋をかけはじめた。その手はぶるぶるふるえた。校長さんが仰るやうでないもっとごまかしのない国体の意義を知りたいのです と前の徳育会でその富沢が云ったことをまた校長は思ひ出した。それも富沢が何かしっかりしたさういふことの研究でもしてゐてじぶんの考へに引き込むためにさう云ってゐるのか全く本音で云ってゐるのか、或は早くもあの恐ろしい海外の思想に染みてゐたのかどれかもわからなかった。卒業証書も生活の保証も命さへも要らないと云ってゐるこの若者の何と美しくしかも扱ひにくいことよ。扉がまたことことと鳴った。
 古いその学校の卒業生の教授が校旗を先導しに入って来た。校長は大丈夫かといふやうにじっとその眼を見た。教授はその眼を読み兼ねたやうに礼をして「お仕度はよろしうございますか。」と云った。「よし」校長は云ひながらぶるぶるふるえた。教授はじぶんも手袋をはめていないのに気がついて あ失礼と云ひながら室を出て行った。
 校長は心配さうに眼をあげてそのあとを見送った。
 校長の大礼服のこまやかな金彩は明るい雪の反射のなかでちらちらちらちら顫へた。何といふこの美しさだ。この人はこの正直さでこゝまで立身したのだ と富沢は思ひながら恍惚として旗を持ったまゝ校長を見てゐた。
ちくま文庫:宮沢賢治全集8 大礼服の例外的効果
 
余談 わたくしの母校富山県立福野高校は、1894年(明治27年に富山県立簡易農学校として創立、以来地域の農業技術教育センターとして農業後継者を数多く育成した。1903年(明治36年)に本館厳浄閣を建設。この建物が旧盛岡高等農林学校本館と同じような建築様式で、現在国の重要文化財に指定され保存されている。

花巻瞥見
賢治没年昭和8年(1933年)の2年後の花巻町と花巻川口町を合わせた人口が約1万7千人弱。現在東北新幹線が通り、花巻市の人口が約10万人余、隣接の北上市の人口が約10万人弱で両市合わせて北上都市圏を形成している。花巻市の郊外は典型的な田園地帯。減反が進んでいるせいか、平野部が約7割位、鉛温泉へ行く途中の山間部では約9割位が休耕田となっている。

この休耕田について農林省岩手県花巻農政局統計・情報センターに問い合わせてみたころ、このあたりの減反率は全耕作地に対して約30%位になるという。統計に出ないこの差の田畑が耕作放棄され休耕田になっている訳だ。酪農家は最近の輸入飼料の高騰で経営が圧迫されていると報道されているので、「休耕田で安い飼料米をつくろうという動きがあるようですが、そのへんはどうですか。」と聞いたところ、「担い手不足や価格面で経営が成り立たないので、やろうという人がなかなか出てきていないのが現状だ。」ということだった。

戦後の一時期からみると、現在の米の消費は半減し国民一人あたり年間約60kg(約1合強/1日当り)といわれている。生活が豊かになって米の消費が減った分パンや魚・肉などの摂取が増え、食生活の内容が一昔前と激変した。米をつくれば余るのでつくれない。つくろうと思えばつくれる先祖から伝わってきた大切な田畑が、今の代で跡継ぎがいないことや農業だけで暮らしてゆけないために耕作を放棄せざるをえない姿は、なんとも痛ましい。賢治が生きてこのありさまを見たらなんというだろうか。

また、現在世界の人口の100人当たりにつき約13人が食糧不足による栄養不足で苦しんでいるといわれている。将来的に人口増で食糧が不足すると予測されている今日、このような国のあり方について、今後世界から問われるのではないだろうか。

花巻市内中央部を自転車で走ってみて、古い建物がほとんど見られなかった。花巻も戦争末期に空襲に遭い、市の大半の家屋が焼失したという。賢治の貴重な資料は、賢治の弟の清六さんが、体を張って防空壕へ運び空襲から守り通したと聞いている。駅前に「やすらぎの像」というモニュメントがある。これは1945年8月10日の花巻空襲の犠牲者の霊を慰め、恒久平和を祈念するために建立され、市民の浄財により建立された。

昭和20年(1945年)8月10日昼頃
来 襲   米軍艦載機グラマン15機
投下爆弾 20個(推定)
機銃掃射 各所
死 者   42名
負 傷 者  約150名
焼失家屋 673戸
倒壊家屋 61戸    

終戦の五日前のその日の正午頃、釜石からの米軍艦載機が何機かで花巻に爆弾と焼夷弾を落とし、機上からの機銃掃射で沢山の死者が出た。それはグラマン艦載機で、花巻の附近にあった小さな飛行場を攻撃した帰途に、花巻を爆撃したのであった。
 たしかにそのなかの一機は、私共のすぐ上まで降りてきて、飛行士が機上で手をたたきながらはしゃいで機銃掃射をして、低空を大へんなスピードで飛んで行ったのを私は見たのだ。
ちくま文庫:宮沢清六 兄のトランク 
『焼け残った教材絵図について』