2009年2月寒の内

1月16日、このところ晴天続いている。大寒(1月20日)の4日前、ひさしぶりに高尾山に登る。山は、ミシュラン3ツ星登録で登山者急増ニュースが報道されて混雑が予想されるので、しばらく登山を敬遠していた。正月はほとんど家にいて、畑にも行かずいささか運動不足になっていた。

午前9時過ぎ、高尾山口駅に降り立つ。駅にはリュックや杖を手にした登山客の3から4グループが屯している。南浅川上流の案内川から分かれた細川に沿って高尾電鉄ケーブルカー清滝駅に向かう。駅の広場の右手には1号路表参道(北斜面)、左手には蛇滝への道の入口から山手に入る稲荷山コース(南斜面)に分かれる。今は寒の内なので、南斜面の日当たりと眺望の良い稲荷山コースをとる。

細流にかかった左手の小橋を渡るとすぐに霜がきつい急登の山道になる。やがて稲荷山の尾根筋にでると、日当たりのよい見晴らしがひらけてくる。むき出しの根方や深くえぐられた山道の底をさけながら軽い登りが続く。約40分位で標高約400mの見晴らし台のあずまやにつく。そこでしばしの休憩をとる。手前の多摩地域から新宿副都心、奥多摩連山、奥の秩父連山と眺望がひらけている。

あずまやを出てからは緩やかな山道が続く。途中の樹間からときおり富士山が垣間見える。尾根道の北斜面に5cmほど雪が積もっているところがある。あずまやから約30分位で石段が続く高尾山直下の周回路にでる。はじめはそのまま山頂に行く予定でいたが、正午までにはまだ1時間位ある。一休みして、左側の5号路(山頂周回コース)から約1.6kmの一丁平まで足をのばすことにする。

5号路に入ると、疎林の間から富士山が見える。周回コースから一丁平への分岐点にくると山道を補修している4~5人の工事屋さんに出会う。歩きにくい急な山道に木杭を打って角材を寝かせた階段をつくる工事のようだ。油圧ショベルがおかれ、こんな山道にまで建設機械が運び込まれている。なだらかな丘のような山道が続く。途中に休憩所やトイレがある。このあたりまでくると一面に浅い雪が積もっている。道は霜が解け、ますますぬかるんでくる。正午にはまだ間がある。

急に平らなところにでると、右手にほぼ富士山の全容が見える。ここは正に一級の富士見台だ。眺望をよくするために視界を遮る周辺の木々が切られ、大きな切り株だけが残っている。前山に石老山、鉢岡山、仙洞寺山、中間に大室山、丹沢山塊、大山、遠山に富士山(下線は明確に分かるが、それ以外は推定)が見える。富士山の山肌は異様に白い。日が高くなっているので、山襞があらわに見えない。山に水平に光線が当たると山襞が浮き出るので、山の撮影は朝か夕が良いといわれている。

約30年前、子供が小学生の時に同年代の近所の家族でここまできてお花見をしたことがある。その頃はまだ山道が整備されていなく、今より周りの木々も多かったような気がする。先へ行く人、戻ってくる人、ここで休んで景色を眺めている。中高年がほとんどだ。女性と男性では6:4位の割合だろうか。女性の場合はグループ連れが多い。麓から高尾山までを初級コースとすれば、ここまでくるのは中級コース、これより先の影信山、陣馬山まで足をのばすのは上級コースになる。

日本画家東山魁夷に「残照」「曙」「朝雲」「山雲」「白夜光」などの山岳風景画作品がある。どれも朝夕の光と雲が織りなす幽玄な世界を描いている。前山の濃い色調から遠山の薄い色調までが透明な遠近感をあらわしている。いま眼前の山岳風景はそれに近いが、朝方であればもっと魁夷の世界に近い風景にちがいない。

日本人は風景画を好む。日の出をみて自然に両手を合わせたりするのは、これは縄文時代から続く日本人のDNAが、人をして自然の一部であることを無意識に自覚させてくれるからではないだろうか。
そこで昼食をとり、12時30分出発し帰途につく。途中、高尾山の途中のもみじ台で野草研究家の菱山忠三郎先生の約20名の一行に出会った。聞いてみると朝日カルチャー教室だという。薬王院に参拝し、1号路を通って高尾山口駅に戻った。

切り株の 切り口匂ふ 寒さかな 幹治


高尾山系を潤す水系
八王子の北部を流れる北浅川と市街地南部を流れる南浅川の浅川水系に触れてみる。百草園辺りで多摩川に合流する浅川は、八王子市役所西にて北浅川と南浅川が一つになる。

南浅川は八王子市街地の北部を流れ、陵南大橋付近で初沢川が注ぎ、両界橋(高尾駅より下る中央線が跨ぐ)甲州街道を経て上椚田橋付近で南高尾山地を水源とする案内川が注ぐ。さらに高尾山口駅付近に琵琶滝上流とする支流がある。修験道霊山の高尾山は南浅川水系を水源としている。近年、市街地を流れる川は道幅を広げるためにコンクリートで全面を覆われているところが増え、水の流れが人の目につかなくなってきている。

高尾山薬王院の由来
天平16年(744年)に聖武天皇の勅命により東国鎮護の祈願寺として、行基菩薩により開山されたと伝えられ、その際、本尊として薬師如来が安置されたことから薬王院と称する。
永和年間(1375年 - 1379年)に京都の醍醐寺から俊源大徳が入り、飯縄権現を守護神として奉ったことから、飯縄信仰の霊山であるとともに修験道の道場として繁栄している。
Wikipediaフリー百科事典:高尾山薬王院