2010年10月阿波おどり

9月4日、「2010第9回踊れ西八夏まつり」阿波踊りが西八王子北口で行われる。夕方6時ごろから多摩地区を中心とした13連の阿波踊りが、西八王子北口駅前特設会場を皮切りに東西商店街の3会場を次々にまわる。

のぼりをおしたてた連の先頭のあとに女おどり、男おどりと続く。三味線・横笛・鉦に太鼓を胸にかけて景気よく打ち鳴らす大太鼓が最後尾だ。編み笠を深く被って華やかな浴衣をきた女性の女おどりは、手先を高くせりあげ手足と体をしならせながら、激しくまた緩やかに踊る。下駄の足の指先から手の指先まで波打つようにして踊る。下駄が舗装の地面を蹴ってカタカタと小気味よく鳴らすさまはタップダンスにも似ている。編み笠の間から笑みをたたえた顔をチラチラのぞかせる。

そのあとに男性の男おどりが法被に浴衣を尻からげにし、頭に手ぬぐいを巻いて腰を落とし、勇ましく、また滑稽に激しく手足を動かして踊る。女おどりと男おどりは対称的だ。店頭に立っていると次々に連がやってくる。

囃子(アーラエライコッチャ エライコッチャ ヨイ ヨイ ヨイ ヨイー)
「瓢箪ばかりが 浮きものか わたしの心も浮いて来た」
囃子
阿波の殿様 蜂須賀候が
今に残せし 阿波踊り
囃子
「大谷通れば石ばかり
笹山と通れば笹ばかり
猪豆食って ホーイ ホイホイ」
踊り踊らば 姿よく踊れ
姿の良い娘を 嫁にとる
「踊る阿呆に 見る阿呆
同じ阿呆なら 踊やにゃ 損々
新町橋まで 行かんか 来い来い」
巡礼お鶴の あの菅笠に
愛し涙の雨が降る
「お先のお方に お負けなよ
私は負けるの 大嫌い」

〔阿波踊り〕解説
この唄は、吉野川の河口に開けた蜂須賀候公の城下町徳島で8月15日から4日間盆踊り唄としてうたい踊られる。もとは熊本県天草の「牛深ハイヤ節」で船乗りたちによって伝えられたもので、夕方から夜にかけて大勢の人たちが乱舞する「ぞめき」に利用された。明治の末になって手が加えられ、三味線の手や踊りは「ハイヤ節」で、唄は当時流行唄であった「よしのこ節」に取替えられた。
日本の民謡 秋田・みんよう企画

阿波おどりは徳島の漁師町で生まれたおどりである。女おどりも男おどりも威勢よく跳ね飛ぶさまは勇ましい漁師の心意気を示しているようだ。

わたくしのふるさと富山の八尾町に「越中おわら節」がある。おわら節にも女おどりと男おどりがあり、女おどりは手や腰をしなやか反らしながら踊り、男おどりは案山子ににせた粋でしゃきりした踊りが特徴だ。胡弓と三味線の静かな鳴りもの、ゆったりとしたしぶい唄声が情緒をもりあげる。おわら節がどことなく品があり優美なのは、町が昔、養蚕と和紙で栄えた歴史をもっているからだろう。

日本人には和服が似合う。女の和服や浴衣、男の紋付袴や仕事着の印半纏は、着やすく風通もよいので夏の高温と湿気を快適に過ごすことができる。これがまつりになると一段と凝らした柄や意匠の着物で競い合う。まつり見物の楽しみの中には連のさまざまな衣装を見比べるも含まれる。

東京は全国からやってきた人が集まっている大都会だ。近年、「風の盆」や「阿波踊り」、最近でできた「よさこいソーラン」など都下の各地でよく踊られるようになった。年配の人たちはふるさとを想い、若い人はむかしからの日本文化に触れて、日本人に生まれて良かったことを実感する。

指先の せりあげしなる 阿波おどり 幹治


350年以上の歴史を持つ八尾町は、飛騨山地と富山平野が接する交通の要地に位置し、養蚕・和紙などの商いで大いに栄えた。「富山藩の御納戸」とまで呼ばれ、財力による貢献から、富山藩からの統制も緩やかだったという。蚕の卵である蚕種の販路が全国に広がるとともに、1813(文化10)年頃には八尾の蚕種が全国の四分の一を占め、1861(文久元)年頃には輸出量も日本の五分の一を占めていた。

また、1788(天明8)年の「紙値段付書上申帖」には紙宿(紙問屋)が34軒あり、その下に宿子(漉家)が約1000軒あった。1985(昭和60)年、八尾町の和紙文化をふまえ、国内外の紙文化を紹介する和紙文庫が、廃校になった校舎を井田川右岸に移築して開設された。養蚕・和紙、ともに衰退してしまったが、土蔵造りや格子戸に往事のたたずまいを偲ばせている。八尾町の財力が育んだ独特の文化が「おわら風の盆」であり、「曳山祭」なのである。
http://homepage3.nifty.com/kazegumi/town.html