2010年11月津軽三味線

10月24日、昨年に続き「第39回おらだちの唄民謡おさらい会」が相模原市緑区中沢自治会館でおこなわれた。昨年の日誌を調べてみると10月25日とある。丁度丸1年前になる。今年も参加は地元津久井民友会の他に応援社中7団体総勢約50名である。当年78歳の会主が39年前にこの会を始めた。当時の主催社中は30代壮年の頃という。その頃は民謡ブームの真っ盛りで、テレビやラジオが民謡の番組を沢山組んでいた。

津軽から上京した人が津久井に住んで、ここで津軽三味線を教え広めた。その社中が参加しているためか曲目には津軽物が多い。
津軽物には津軽じょうがら節、津軽小原節、津軽よされ節を津軽三大民謡(津軽三つもの)と呼び、それに津軽あいや節、津軽三下がりを加えると津軽五大民謡(津軽五つ物)と呼ばれる。今回の曲目92曲中津軽物は全体の約2割18曲に及ぶ。ここで北から順に曲目をならべてみると次のようになる。   ※印はわたくしの曲目

北海道・東北地区
北海道    江差馬子唄3、道南口説3、鱈つり唄1
青森     津軽願人節1、津軽あいや節1、津軽甚句1、八戸小唄2、十三砂山2、津軽タント節2、津軽じょんがら節4、津軽願人節1、道中馬子唄1、りんご節2、津軽小原節1、津軽あいや節1、南部俵積唄1、謙良節1、生保内節

秋田     秋田船方節2、秋田おばこ2、秋田人形甚句1、秋田小原節1、長者の山2、本庄追分1、喜代節1、秋田草刈唄1、秋田酒屋唄1
山形     あがらっしゃれ1、庄内おばこ1、新庄節1
岩手     南部木挽唄1、外山節1、南部牛追い唄1
宮城     米節1、夏の山唄1、新さんさしぐれ2、秋の山唄1
福島     ※原釜大漁節

北日本地区
新潟     米山甚句1
富山     
石川     
福井     

関東地区
茨城     磯原節1、磯節1
栃木     
群馬     
千葉     鴨川やんざ節1
埼玉     
東京     豊島もちつき唄1
神奈川    箱根馬子唄1

中部地区
長野     
山梨     
静岡     岡崎五万石1
岐阜     高山節1

近畿地区
滋賀     
三重     淡海節1
京都     
奈良     
大阪     河内温度1
和歌山    ※吉野川筏流し1、白浜音頭1

中国地区
鳥取     かいがら節1
島根     しげさ節1、隠岐祝音頭1
兵庫     
岡山     奥津小唄1
広島     音戸の舟唄1
山口     下関ふくばやし1

四国地区
香川     
徳島     祖谷の粉ひき唄1
愛媛     宇和島さんさ1
高知 

九州地区
福岡     筑後の酒造り唄1
佐賀     
大分     
長崎     島原の子守歌1
宮崎     刈干切唄1、シャンシャン馬道中唄2、日向木挽唄1、稗搗節1
熊本     ポンポコニャー1
鹿児島    
沖縄     安里ユンタ1

こうしてみると青森を先頭に、圧倒的に東北物が好まれていることが分かる。民謡の楽器には三味線、尺八、太鼓が主に使われる。津軽物は、いずれも骨太い津軽三味線と太鼓をバックに威勢の良いものが多い。この力強さは東北地方の厳しい気候の風土からくる。

東北地方は、有史以来、夏にたびたび「ヤマセ」が襲い作物は稔らず飢饉が起きている。厳しい冬の日々の生活は自然との闘いであり、冬が厳しければ厳しいほど春が待たれる。春が到来すると人々は寒さから開放され、爆発する。それが「ネブタ」であり、「津軽三味線」なのだろう。

太棹の 棹しなりゐる 秋桜 幹治


津軽三味線のルーツ

弦楽器そのものの発祥は中東とされる。その後構造的に変化しながら、インドを経て中国に入り、中国南部において「三絃」が成立。この「三絃」が沖縄を経て畿内に持ち込まれ(異説あり)、江戸時代中期に日本独特の三味線となった。以降、三味線は日本各地の土着芸能と融合して様々に発達し、当時日本最北端であった津軽地方において津軽三味線となる。

津軽三味線の楽曲の原型は、新潟地方の瞽女(ごぜ)の三味線と言われる。その他、北前船によって日本海側各地の音楽が津軽に伝わり、津軽民謡は独特の発達をみる。しかし、津軽地方においてはボサマと言われる男性視覚障害者の門付け芸として長く蔑まれていた。

そのためもあり、津軽三味線の起源をたどることができる文献はごく僅かで、歴史に関してはおおむね口伝に依る。ただし、津軽三味線の歴史が浅いため、現在でも、古老の三味線奏者から、あくまで主観的なものではあれ、津軽三味線の起源について聞くこともできる。
津軽三味線:Wikipedia百科事典


東北地方の冷害
東北地方は、近世に入って度々「ヤマゼ」による冷害を受けている。津軽三味線を生んだ気候を参考に掲載する。

近世後期に異常気象以外の原因が重なり飢饉が起きている例がある。亨保17年(1732)に北九州から四国・中国をへて畿内まで蔓延したウンカの大発生による亨保大飢饉がおきている。虫害による損害がはなはだしく餓死者を多数だした。『徳川実記』によると96万9千9百人にのぼったという。

天明2年(1782)から天明7年(1787)まで気象異変がつづき、加えて天明3年(1783)夏に浅間山の大噴火と大降灰により低温・長雨がつづいた。火山灰は関東地方や甲信越地方はもちろん東北地方まで降り積もり作物を枯死させた。全国的に史上空前の大飢饉になったが、特に東北地方はヤマセの冷害も加わり収量が激減した。また天保3年(1832)から天保9年(1838)までの7ケ年のうち、天保7年(1836)が特に夏に冷雨つづき、大凶作につぐ大飢饉をもたらし、餓死者を多数だした。

また、幕末から現在にいたるまでもたびたび凶作・飢饉が起きている。
慶応2年(1866)、明治2年(1869)、明治17年(1884)、明治35年(1902)、
明治38年(1905)、明治43年(1910)、大正2年(1913)、大正10年(1921)、
昭和6年(1931)、昭和9年(1934)大凶作、昭和16年(1941)、昭和20年(1945)、
昭和55年(1980)、平成5年(1993)大凶作

青森の夏季(6~8月)の平均気温が20度を割ると水稲収量が落ちる。明治・昭和初期に度々冷害が起きた。
卜蔵建治:ヤマセと冷害 成山堂書店