2011年10月巾着田の曼殊沙華

9月19日午前9時半晴、デジカメ撮影の一行12人西武線高麗駅に着く。今日の目的は巾着田の曼殊沙華の撮影だ。昨年は残念ながらこの計画が雨で中止となった。この会では今年が初めての巾着田である。わたくしは、20数年前に家族でこの秋彼岸の時期に曼殊沙華をみにきたことがある。その時にはひなびた感じで駅周辺に家並みはなく、巾着田までは田畑がひろがり畑道だった。駅前広場にでると朱色の「天下大将軍」と「地下女将軍」のトーテムポールが正面両脇に突っ立っている。以前に見たときは木製だったが、これはコンクリート製だ。

これは男女の標が対になったもので、朝鮮語でチャングンピョ(将軍標)というが、別の表現ではチャンスン(??、長?、長丞)ともいう。竿頭に鳥が止まった神竿をソッテ(??)、人面を彫った神木をチャンスン(長?)という。鳥は天地を往来して神の使いをすると信じられて神格化され、神木には人面を彫って人格神化したという。
将軍標:wikipediea

この将軍標は、8世紀に争乱のあった高句麗からわが国に招かれて移り住んだ渡来人が建立したものである。この人びとは採集狩猟を行っていたツングースの末裔ともいわれ、この様式は日本でいえば村境におかれている道祖神、シャーマニズムの伝統を伝えた韓国の守護神のようなものであろうか。巾着田を取り巻く高麗川は川幅が広く、荒川水系の越辺川の支流の堂々たる一級河川である。渡来人は洪水を治水する技術と田に水を引く利水(灌漑)技術を併せ持っていた。ここを開墾して治水・利水工事を行い、巾着状の土地を水田に変え稲作を伝えた。

「国道299線を渡ると巾着田へ続く小道に入る。道の両脇には土地でとれた生姜、茗荷、茄子、胡瓜などの農産物に、蔓などの手作りの品が並ぶ。女性会員は主婦本能に動かされ、買いたそうなそぶりをみせるが、荷物になるので買い物は撮影が終って帰りということにする。高麗川に架かる鹿化合橋を渡ると土手が続き、曼殊沙華の株がところどころ咲いている。まだ五分咲き位であろうか。今年は暑い夏が続いたため例年にくらべ一週間ほど遅れている。

巾着田の湾曲部は幅ひろい林となっており、その中に百万本といわれる曼殊沙華が植わっている。曼殊沙華の大群生地である。上流や畦道から流出した曼殊沙華の球根が林の湾曲部にとどまり、長年の間の数を増やしていったものという。

戦前や戦後の食糧難に時期には、巾着田で稲作を行われていたと思われるが、今では稲作が一部の田んぼでしかつくられていない。稲穂が垂れそろそろ刈り入れの時期だ。赤い稲穂の古代米の田んぼも一部にある。減反となった田んぼには一面にコスモスが植えられている。幅広いコスモスの畝に人が入れるようになっており、大人の背丈ほどの花の間をみんなが散策している。時折風が吹くと細いコスモスの茎がしなり千変万化にゆれる。

世界では約7億人が食糧不足で悩み、毎年約1,200万人の子供が死亡しているという。日本では食糧が過剰で減反政策がとられている。この両方が現実だ。田んぼにコスモスを植え、平然としている今の日本人は一体どうなっているのか。今から約60年前までの日本は慢性的に食糧不足だった。

昔の田んぼは、雑草が生えている田んぼは百姓の恥として、田植えから始まって稲が実るまで家中で何度も田草取りをしていた。農村から都市へ人口移動が始まる高度成長時代に入り、食の西欧化に伴って米の消費が減り農村では休耕田や減反が進んでいる。今のわたくし達はこの光景をみても、しだいになんとも思わなくなってきている。昔の人が今このコスモス畑をみると、どう思うだろうか。

ひがげれば うせゐる色の 曼殊沙華 幹治
ひあたれば かがやく色の 曼殊沙華 幹治








2011.9.17八王子「おわら風の舞」
午後6時頃から始まり、一時小雨が降ったが終わりの9時頃に雨がやむ。