2010年4月東日本大震災

2011.3.11(金)午前晴、いつものように畑に行く。先週、畑では馬鈴薯(キタアカリ)の20個の種芋を畝に植え付け、溝を掘って50本の葱苗を植えつけた。

午後、畑仕事も一段落し食後横になっていると14:50頃、突如轟音とともに家鳴りがはじまった。地震だ。急いで居間から廊下に通じる戸を開ける。そのうちに横揺れが激しくなる。ひどい激震だ。据え置きテレビのデスプレイが前後に大きく揺れ、いまにも倒れそうだ。家には妻と義母がいる。

急いで廊下に出てと叫ぶ。わたくしは帽子を探して被る。妻はソファの背もたれのクッションを両手で持って頭に被る。義母は柱に掴まる。大分して揺れがようやくおさまる。その後で何度か余震があった。戸建ちのこの家は棚から本が落ちた程度で済んだ。後で高層マンションの様子を聞いたところ、横揺れで飛ばされそうになり台所の冷蔵庫が約10cmも動いたということだった。

テレビは震源地が三陸沖と報じる。巨大地震のようだ。大津波が来ると叫ぶ。沖から白波の壁が押し寄せてくる。みるまに防波堤を打ち壊して乗り越え、船や車や家を押し流しながら次々に町を破壊してゆく。テレビは高台に避難した人々がただ呆然とみている様子を映し出す。

津波の濁流の中には逃げ遅れた沢山の人もいるはずだ。車や船や家が凶器となってぶつかり合いながら、徹底的に町並みを破壊し尽くす。津波が引いては、しばらくして2波、3波と押しよせる。津波は、押しよせる時よりも引く時の方が破壊力が上回ることがあるという。その後、巨大地震の震度が8.8から9.0だったことを気象庁が訂正。

翌朝、テレビは仙台市若林区が津波で荒廃し平坦になっている様子を映し出す。木造家屋は根こそぎ津波で押し流され土台だけになっており、鉄筋のビルは骨組みだけを残している。車や船がビルの屋上に乗り上げている。火災があちこちで発生している。

海岸に面した若林区には名取川が貫流しており、津波は川を上流までさかのぼりながら堤防を乗り越え田畑を押し流している。青葉区は若林区と隣接し名取川の約10km弱上流で、津波は直ぐ近くまでさかのぼっている。津波は北上川を約50km溯上したという。

仙台市青葉区の友人メールで安否を問い合わせる。次の日にメールが届く。電気と水道が使えないがなんとか無事らしい。

連日、災害情報や原発危機の情報をテレビや新聞が報道する。インフラが破壊され、被災地は孤立している。震源は宮城県約20km沖。東日本側の被災地は、青森県から茨城県まで東北関東太平洋沿岸の約500kmに及ぶ。被災した市町村は次のようになる。

青森県 六ヶ所村、八戸市

岩手県 久慈市、野田村、普代町、田野畑村、岩泉町、宮古市、山田町、大槌町、釜石    市、大船渡市、陸前高田市、

宮城県 気仙沼市、南三陸町、石巻市、女川町、女川原発、東松島町、塩釜市、多賀城市、仙台市、名取市、岩沼市、亘理市、山元市

福島県 新地町、相馬市、南相馬市、福島第一原発、福島第二原発、浪江市、双葉町、大熊町、富岡町、楢葉町、広野町、いわき市

茨城県 北茨城市、日立市、ひたちなか市

千葉県 旭市、浦安市

地震被害状況
死者11,362人、行方不明16,290人、負傷2,872人、建物153,228戸
警察庁まとめ 2011.3.31現在

加えて、福島第一、第二原子力発電所が地震と津波で破壊され原発危機に陥っていることが報じられる。福島原発は、現在1号機から6号機まで稼動している。これまで、大きな原発事故としてはソ連のチェルノブイリ、米国のスリーマイル島があった。前者の原発事故のレベルが7、後者のレベルが6だった。福島原発は4から5に引き上げられた。

原発事故が起きると特に、核燃料・計測・医療のために使う放射性物質が漏れ出すと、大気や土壌、水が汚染され、環境、人体ともに多大な被害をもたらす。原子力発電所で事故が発生した場合は、 国際原子力事象評価尺度(INES)によりレベルがつけられることになっている。

2011.3.東北関東巨大地震
白波の かべせまりくる ふきのとう 幹治


地震余話

今までわたくしが経験した一番大きい地震は、故郷富山で1948年福井地震(当時8歳)を経験した。その時は、向かいの二階の魚屋が今にも倒れそうに大揺れし、自分の家も壊れるのではないかとおもうほど家鳴りした。母が走りこんで6歳の弟を抱きかかえ、うずくまっていたことを鮮明に記憶している。
また、その地震を経験した4歳下の妻の話では、敷物を引いてままごと遊びをしていたが、その敷物が空飛ぶジュータンのように浮いた気がしたといっていた。