2012年5月 片倉城址の桜

2012年4月10日正午晴。3年ぶりのことである。畑仲間が集まって花見をすることになった。参加は用事でひとりが欠け5名になった。花見会場は片倉城址本丸広場。先発は敷物をもって場所取り、後発は食料買出しで片倉駅前のスーパーへ行く。ビール・酒・お茶、弁当、摘み物、果物、お菓子、コップ、皿、締めて4,131円。それに差し入れの四合瓶の日本酒が加わる。

これで花見ができるのだから安いものだ。若い頃と違ってみんなの酒量も減り、食べ物も少少しでいい。成人男子の一日のカロリーは約2,400kcal位に対し、シルバー世代は精々1,800kcal位だろう。今日は飲み会だから多少はオーバーする。参加した畑仲間は畑代表が昭和7年生、わたくしが昭和15年生、若手が昭和17年生で、年長から若手まで約10歳のひらきがある。

片倉城址公園はJR片倉駅から5分位のところにある。園に入ると桜はほぼ満開だ。入って左手に池があり、数人のアマチュアカメラマンが池にカメラを向けている。訊いてみると狙いはカワセミだという。どこの水辺でもカワセミは人気者だ。八王子では南浅川の横山橋と東横山橋の間に有名なカワセミポイントがある。

北村西望記念彫刻広場を抜け、なだらかな北側斜面に山道に入る。カタクリの大群生が目にとびこんできた。今が真っ盛りだ。カタクリの最盛期は例年に比べ20日ほど遅い。夢中でカメラのシャッターを押す。群生地をあとにして急な坂道を登り頂上広場へ向かう。途中中年女性のグループと出会い、あとで一緒に花見をしましょうなどと軽口を叩く。芝生広場奥の桜の下で手を振っている人がいる。先発場所取りが敷物を敷いて待っている。

大芝生を見渡すと、平日にもかかわらず幼い子供連れの家族や熟年夫婦が、敷物を敷いておもいおもいの陣取りをしている。まり投げをしたり、駆け回ったりして子供たちはじっていていない。

われわれ畑仲間は敷物に買出した食料を並べる。いよいよ宴会だ。畑仲間代表のSさん(昭和8年生)が一言あいさつして乾杯する。代表はギターと唱歌集を持参してきて、みんなで歌おうという寸法だ。ひとしきりして、みんなが一人づつこれまで経験した花見を語ろうじゃないかと代表が提案した。

花見の話は、やはり若い頃の新社会人の経験だった。主なものは次の通り。まず造園科をでた人の話、ここ片倉城址の造園について市から経験者としてアドバイスを求められたことがあった。まだ学校卒業して日も浅かったため、満足な答えができなくて残念だった。今ここにきてみると園がよく整備され桜やカタクリがすばらしくなっている。

次の人、桜名所飛鳥山公園の話。昭和33年頃、上京間もないころ北区滝野川に住んでいた。その桜は見事だった。(実はわたくしも昭和34年上京した時に1年間同じ滝野川に住んだことがあった)考えてみると、戦後復興中の8、9年の話だ。

その次の人、八王子市富士森公園の夜桜の話。ここは八王子随一の花見の名所である。ただ、北傾斜面なのと樹木がうっそうとしているため明るい公園ではない。それでも夜は夜店がでて、夜桜見物の客が大勢くる。

わたくしの新入社員時の話、会社の花見の会場は会社の裏手の杉並区善福寺緑地公園だった。わたしも真っ先に花見の場所取りに行かされた。当時の先輩社員は威張っていた。

最後は代表の話、会社の支店が姫路にあり、花見会場の姫路城は駅から約1kmの距離にある町中だ。宴たけなわになるとどうしても酒がたりなくなる。そこは繁華街に近いため、新入社員が指名され町まで酒の調達に行かされた。
一通りみんなの話しが終わってから、代表が用意した唱歌の本を手に、代表のギター伴奏でみんなが合唱。曲目は次の通り。

春が来た
春の小川
おぼろ月夜
ふるさと
母さんの歌
丘を越えて
東京ラプソディ
りんごの唄
憧れのハワイ航路
山小屋の灯火
桜貝の唄
高原列車は行く
高校三年生
北上夜曲
青い山脈

これらは誰でも知っているなつかしい歌ばかりだ。当時の歌詞や曲はどれも歌いやすい。当時は、家族みんなで食卓を囲み、のど自慢などラジオを聴きながら育った昭和の時代だった。歌の合間に作詞家、作曲家の裏話に花が咲く。

まわりや遠く離れた人たちが一斉に振り返ってわれわれの方をみる。大芝生の反対側の端にオカリナ合奏をしている女性グループがあった。しばらくしてから、仲間の1人が歌の本を手に一緒に歌わないかと誘いに行ったが、あとで行くといいながら大分待っても遂にオカリナは来なかった。

オカリナと ギターがきそふ 花筵 幹治