2012年9月 葱づくり

これまで、毎月のエッセイを月初め1日にアップ・ロードしてきた。今回、残念ながら7日遅れてしまった。言い訳をいうと、消費税の論考「消費税増税を考える」のまとめが遅れてしまったためである。この論考は5日にようやく本siteのサブページにアップロードすることが出来た。わたくしは東京都市大学環境情報学部「市民講座受講者の研究会」に参加している。今月15日にわたくしがこの論考を発表することになっている。これを見ていただいて、ご意見などいただければ有り難いです。

秋野菜の準備
さて昨日、2週間ぶりに畑代表と一緒に共同菜園に行ってきた。これは週1度通っているもので、畑は6坪しかなく、野菜づくりのまねごとをしているようなものである。図書館の千人塾の仲間とはじめた畑通いは、かれこれもう8年位になろうか。

昨日の仕事は、多少大きくなった葱苗の移し変えである。まず、平鍬で30cm位畑土を掘り下げ溝をつくる。溝掘りはけっこう重労働だ。掘り終わった溝の片面に葱苗を立てかけてゆき、ふた畝で約100本植えつけた。それが終ると溝に枯草(藁がないので)を放り込み、軽く土を被せる。葱の根は空気を好むのであまり厚く土をかけない。あとは、葱に生育をみながら土寄せしてゆけばよい。

この葱苗は、家のベランダのプランターで3月に種を播いて育ったものだ。小さな葱苗を移し変え、3度目で本植えになる。葱づくりは、野菜づくりのなかで期間が長く1年弱位かかる。今回、これで2回目になる。なにせ、週1度の畑通いなので、根菜類しかつくれない。成長の早い野菜は家のベランダと庭でつくっている。

手がけている作物は、春収穫の玉葱、人参、じゃが芋、大根、キャベツ、レタス。秋収穫の里芋、冬の葱など。いろいろ試してみたが、今はこんなところに落ち着いている。
家つくっている野菜は、ベランダで春のエンドウ豆、夏の隠元豆、ピーマン、ゴーヤ、獅子唐。庭では、胡瓜、トマトなど。共同菜園と家のミニ菜園で無農薬の野菜づくりをしているので、野菜からも季節を感じることができる。

農産物生産について
農産物の生産は天候に大きく左右される。作物の出来不出来となる要素は、気候が7分で人為が3分位の割合か。農家は、この条件で農産物を生産している。農家の仕事がいかに大変で儲からないか、実際に野菜をつくってみてよく分る。野菜づくりなどは歩留まりが悪い。売り物になるのは6・7割位か。工業生産では考えられない比率である。

季節は毎年巡ってくるが、同じような年は殆どない。夏冬の寒暖の違い。梅雨や台風の影響など、まさに農業は天気まかせだ。そうして、3~6ケ月かけてつくった農産物が市場のセリにかかると、生産原価の3~5倍で落札され小売店で売られる。農家の手取りは逆に売値の1/3~1/5位にしかならない。農家は、毎日田畑まわりをして米・野菜の水やりや育ち具合を観察する。夏には猛烈に雑草が生える。2週間も放っておくと膝位まで雑草が生える。この時期、無農薬栽培では農作業の約半分は雑草とりになる。

農薬を使うと多少作業が減るかもしれないが農薬が土や作物に残り、健康によくない。最近大分減農薬になってきているようだが、無農薬栽培ではなく、減農薬栽培だ。農薬を使うとみてくれの良い作物ができるが、体にあまりよくない。ひどい例では子供がアトピーになったりする。このあたりが農家の苦労しているところだ。

一方、一般の消費者は形が悪いの、味が良くないの、高いなどといって選んで野菜を買っている。農産物も商品だから仕方がないが、それがどんな思いで生産しているか消費者はほとんど知らない。このように、毎日、家で朝から晩まで一総出で働いても年収は2・3百万円位しかならない。これでは若者が農業をやりたがないのも無理はない。

農作物も商品なので、流通過程で中間マージンが大幅に抜かれる。これをなくするには生産者と消費者が直結した仕組みをつくるしかない。最近ではこうした動き全国で大分でてきているようだ。

また、日本は農業をやめて効率の良い工業製品に切り替え、農産物は輸入したらよいではないかという声が財界などから出てくる。いわゆる世界産業分業論だ。農業は天気次第だ。現在、気候変動でアメリカ・オーストラリアでは日照りが続き水不足で、トウモロコシなどは減収だといっている。

自国の食料を他国に依存しすぎると、いざという場合には食料を輸入できなくなる。最近でも、日本では1993年米の大凶作で、外米を緊急に輸入したことがある。売ってくれればまだよいが、売ってくれなければどうなるか。やはり、食料自給しておかないと食の安全保障がなり立たたない。世の中は効率ばかりを優先しているが、こと食料は効率優先の範疇から除外しなければならない。

花を育てたい妻と、野菜をつくりたいわたしとが、互いに妥協しながらつくっている。わたくしは農家の生まれではない。母方の祖父母は田んぼを持っていたので田植えを手伝ったことがある位。

食料にこだわりがあるのは、食糧難の時代に母の苦労をみてきたからだ。父は戦死した時、母はまだ30代だった。子供は姉を頭に男が4人、家族5人が母の肩に圧し掛かった。食料を得るために、母は売れるものは何でも売る雑貨商をした。その合間に、母は子供を引き連れ川原の空き地に行き野菜づくりをした。その時につくった南瓜や薩摩芋の味をかすかに覚えている。
そんな訳で、食料は自分でつくるものだという意識がこころの底に残っている。

新涼の ややまがりゐる 葱の溝 幹治