2014年8月小諸馬子唄考

 古来、日本の農山漁村では各戸で行う日常の作業のほかに、田んぼに水を引く水利工事が協同で行われていた。単調な作業が少しでも楽にできるように、作業に合わせてみんなで唄うさまざまな作業唄が生まれてきた。
そのなかの一つに、馬喰衆が馬に物資を乗せて運搬するときに唄った馬子唄がある。馬は大きな音に敏感な動物なので、移動は街道の人通りが多い日中を避け夜中に行われた。どの唄にも単調な馬の歩きに合わせた、のびやかで哀愁をもった調子のものが多い。威勢の良い漁村の作業唄とはまた異なった魅力がある。
 わたくしの中学時代の恩師に実家が馬方だった英語の先生がおられる。戦後、運搬や作業手段が自動車や機械に置き換わるようになるにつれ、ふるさとで荷役の牛馬が見かけなくなった。先生の実家にも当然馬が飼われていたようで、授業の合間に馬の話をされていた。越中八尾の「風の盆」の頃になると先生は馬に乗って見物に行ったという。わたくしも人馬一体となった馬子唄を聞くと恩師の馬上の雄姿を思い出す。

 馬子唄の中でものびやかで格調が高い唄に小諸馬子唄がある。

 小諸馬子唄(江村貞一)
  (ハーイ ハイ)
 小諸出てみーーろーー(ハーイ) 
  浅間ーのーー(ハーイ)
 山ーーにー(ハーイ ハイ)
 今朝も煙ーがーー(ハーイ)
 三筋立ーーつー(ハーイ ハイ)

  (ハーイ ハイ)
 黒馬よ啼くなーーよーー(ハーイ)
 もう家(うーちや)ーー(ハーイ)
 近ーーいー(ハーイ ハイ)
 森の中かーらーー(ハーイ)
 灯が見ーーえるー(ハーイ ハイ)


 小諸馬子唄で入手できた資料を次に掲げる。
 
長野県には十曲程の馬子唄があるが、日本の中心の山ぐにであり、峠や道路の難所が各地にあるので、馬子唄の多いのも当然といえよう。なかでもこの唄は全国に唄い、知られているが、もとはと言う碓氷峠を中心に、中山道を往来する馬子衆がうたい出した。おおらかな道中唄である。

 碓氷峠は、長野県北佐久郡と群馬県碓氷郡との境にある峠での要路でもあった。元和二年には関所も開設された。また、これが追分宿の三味線にのって、信濃追分と命名され、越後から日本海を北前船によって北上し、北海道に渡り有名な江差追分になったといわれる。この馬子唄は、何を素材に完成されたかというと、馬喰の出身は農村人であり、常に農山村に出入りしていたので、草刈唄等、山の労働から生まれた唄が背景になったと言われる。
 民謡学校 日本音楽著作協会(出) 1974初版

 この唄は、長野県の浅間山地方に伝わる馬子唄である。中山道の宿駅小諸(昔小室こむろ)を中心に、長野県北佐久郡と群馬県碓氷郡との境にある碓氷峠を越えて往来する馬子達がうたった唄である。三味線にのせて酒席の流行歌となったが、それが再び本来の馬子唄となって復活し現在の「小諸馬子唄」となったもので、各地にある馬子唄より小諸馬子唄は、洗練された旋律を持つ唄で全国的にしられている。
 全国民謡歌謡集「日本の民謡」日本音楽著作協会(出) 2005改訂2版

 民謡のステージで人気のあるこの唄は、1937年に発売された赤坂小梅の邦楽調歌謡《浅間の煙》(西條八十作詞/古関裕而作曲)に挿入されたものでした。その元は、東北民謡の権威・後藤桃水が覚えていた旋律を尺八の菊池淡水に教え、それを赤坂小梅に教えたものといいます。ということで、小諸に古くから伝わる伝統的な唄ではありませんでした。

 ですから、《小諸馬子唄》と《小室節》とは全く別な唄をさします。確かに出だしの「小諸~」は似た感じがなくはないですが、「今朝も…」からははっきりとメロディが異なります。では、後藤桃水の覚えていたという旋律はどこのものだったのでしょうか。なお、「黒よ泣くなよもう家や近い 森の中から灯が見える」という馬子唄の歌詞は、西條八十の作詞によるものです。
ところが、これらが混同されて「追分節のルーツは小諸馬子唄である」という言い方さえ見られますが、これは明らかに否定せざるを得ません。

 しかし、この《馬子唄》はよく歌われるようになりました。浅間山、小諸…といったイメージがいいことと、メロディの美しさ。今や日本の数ある「馬子唄」の中でも最も人気のあるものの一つと言えると思います。
 民謡コレクションの間http://senshoan.main.jp/minyou/minnyou-komurobusi.htm